「やさしさ」の教育―センス・オブ・ワンダーを子どもたちに

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人間の成長とは、「見えないものが見えてくること」
小学校の教員を37年間勤め、現在は早稲田大学で教員志望学生を指導している著者が、今改めて問い直すのは、子どもが学ぶことの意義です。何のために学校に通い、何のために学ぶのか? その目指すべき姿を、次のように表現しています。
「誤解を恐れずに言えば、例えば子どもが磁石を学ぶのは、磁石について詳しくなるためでもなければ、資質・能力を身につけるためでもありません。磁石を媒介にして、先生と子どもが仲良くなり、子ども同士が仲良くなるためです。仲良くなるというのは、やさしくなることなのです」
「やさしさ」とは、私たちの存在が無数のつながりによって成り立っているということに気がつくことです。すべての存在に思いを馳せ、目に見えないつながりを見ようとすること、それが本当の「やさしさ」です。
そのつながりを体験的に、直観的に捉えることができるという意味で、子どもの頃の自然体験はきわめて重要だと言えるでしょう。自然界には、目に見える現象の奥に、目に見えない無数の関係性や変化などが潜んでいるからです。そして、子どもたちの中にある「やさしさ」を引き出すための鍵となるのが、「センス・オブ・ワンダー」なのです。

センス・オブ・ワンダーの本質
レイチェル・カーソンが提唱した「センス・オブ・ワンダー」は、「神秘さや不思議さに目を見はる感性」と訳されます。その一節を紹介しましょう。
「地球の美しさと神秘さを感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活の中で苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます」
地球の美しさと神秘さは、何も特別な景色にだけ存在するわけではありません。何でもない日常の中に価値を見いだす感性が、心の豊かさや人生の充実につながります。そして、当たり前の生活や身の回りの環境に対して、感謝と敬意を抱くとき、そこには「やさしさ」が育っているのです。

子どもたちの日記には、センス・オブ・ワンダーが溢れています。次のような表現からは、鋭い洞察や豊かな感性を子どもが備えていることがよくわかるでしょう。
「きょう、うちのうらにある大きな水がめに雨水がたまり、かがたまごをうんでぼうふらが生まれていました。見ていたら、おもしろいうごきをしていました。水がめのそこのほうからくねくねと水面におよいで上がってきます。しっかり上にでてきたらそれから一度くねっとおどってすーっとしずんで下にもどっていきます。それはどういういみなのかな。よくみると上に上がったとき、あわみたいのを出していたから、いきをしているんだと思いました。お母さんに話したら、早く水がめをひっくりかえして水をすてなさい、と言われました。でも大きすぎてできませんでした。」

子どもたちの「やさしさ」が育つ授業
ある秋の日、1年生の子どもたちと虫捕りに出掛けました。バッタやカマキリを見つけるたびに、子どもたちから歓声が上がります。虫捕りを終えて、教室に戻ってから、ある事実が発覚しました。
Kくんが虫かごに入れようとして逃げ出してしまったオオカマキリを、たまたま近くにいたSくんが捕まえてしまったというのです。普通なら、ここでけんかになるところでしょう。ところが、二人はけんかをするどころか、互いに譲り合ったというのです。そして、最終的に「このカマキリは二人で育てよう」という結論に至ったといいます。小学校1年生でもこのような解決の仕方ができるということに、著者は驚きました。カマキリを通して、子どもたちは「どう生きるか」に関わる大きな学びを得たのです。

このような「やさしさ」が育つ授業には、子どもたちが夢中になって追究し、感性を磨くような環境づくりが必要です。そのポイントの一つに、「周辺」を大切にすることが挙げられます。授業の目標をもつことは当然大切ですが、その目標にこだわりすぎると「周辺」が見えません。
例えば、ある日の校外学習では、子どもたち160人を連れて化石採集に行きました。子どもたちは勇んで化石採集に臨んだものの、なかなか出てこない化石に、集中力が途切れてきました。その日は大変な暑さだったこともあり、冷たい川に浸かる子、池のウシガエルを捕まえようとする子、石で水切りをする子などが現れました。
せっかく化石採集に来たのだから、そのことだけに集中してほしいと教師は願うかもしれません。しかし、これでいいのだと著者は言います。なぜなら、川原で遊ぶことや水の冷たさを感じること、川の流れの様子を知ることも子どもたちにとって貴重な経験だからです。そのような「周辺」からも、子どもは多くのことを学んでいます。教師の思惑の外に問いを発見したときこそ、真に子どもが主役の授業となるのです。